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北京20年目の作家・谷崎光が中国とアジアの本当”をお伝えします。ときどきゲストも!

日本人が豹変する条件は? 無意識で〇〇には何をしてもいいと考えている恐ろしさ

f:id:tanizakihikari:20191216201217j:plain(写真はその当時の姉妹。左から上の姉、私、下の姉である。久しぶりに見ると昔とまったく違う感想を持つ。海外のリゾート地にて)

さて今回はプライベートな話から、日本人を考えてみたいと思う。

いや、ずっと謎だったことが最近、解けた気がして。発端は父親の葬式の直後、母と下の姉と大喧嘩したことである。

 

私の最終学歴は短大卒。京都芸術短期大学(現・京都造形芸術大学)造形芸術学科染織専攻、というのが正式な名称になる。卒業時は学長賞も取っている。

でも実は高校を卒業したときに、日大芸術学部芸術学科文芸専攻に現役で合格している。

ここは林真理子さんや吉本ばななさん、その他、文芸に限らず映像や写真、今もメディアで活躍する沢山の人を輩出している。

以前、メディアの報道で、寄付で入学疑惑の芸能人もいたが(笑)、私のは正真正銘の合格である。
筆記合格の後の面接試験で、配られた用紙に寄付について記入の枠があったが、私はしない、にチェックした。家は多少の寄付ぐらいはできただろうが、子供心にアンフェアだと思ったのである。

しかも筆記の試験当日、引率の姉が道を間違えて大幅に遅刻している。でも受かるときは受かる(ちなみに私は強運で、大学も就職も2つ受けて、どちらも2つとも合格している)。

父親はさっそく”地方のお嬢さん”が入る、舎監付きご飯つきのマンションを探してきた。

けっこう高いので、普通のアパートでいいよ、そんなとこ入れたって、遊ぶ子は遊ぶよ、私は真面目だし、と言ったら、父親が、

「違う。結婚の時、そういうとこにいた、ということが重要なんや」

と言った。男の発想だな、と思ったのを覚えている。

ところが大反対したのが下の姉と母親である。

下の姉は今も女子美術大学の先生をしているぐらいで、早くから私の文章をホメていた。「面白いよ。才能あるわ」。

お姉ちゃん子だった私は何でも姉の言うことを聞いた。そんな姉が母親と一緒に毎日、絶対東京には行くなと責め立てる。姉が「あなたにピッタリの学校があったからウケるだけでもウケてて」といった女子大にも私は合格しており、最終的にはそこに進学することになった。
母親が入学金を振り込まないという実行手段に出たのである。

 

よく考えれば父親に直談判をしたら行けただろうが、それをやったら母親に殺されるだろうな、と思った。実際にも翼を折るというか、精神的には殺されたわけである。
家にお金がないとか、落ちたとかで行けなかったら三日で忘れたと思うが、信頼していた家族からのお前を幸せにはしたくない、は無意識でショックで、それ以後世界はモノクロになった。

進学した女子大は私にぴったりどころか、全然合わなかった(今考えると、姉は、自分より”上”の彼氏など見つけないように、男性のいない世界に送り込みたかったのだと思う。私は合コンとか積極的にいくタイプでもなかったし、女子大に送れば完了である。それも”普通の”女子大がいい)。
私の通っていた府立大手前高校は当時は大阪屈指の進学校で京大、阪大に進学するのがスタンダードだった(東大は行けても行かず、少数派である)。昔の日比谷高校みたいな感じで、生徒はユニークで知的刺激に満ちていた。

女子大の学生たちは気立ては皆良かったが、毎日、ブランドモノと化粧品の話である。私は通学しなくなりいわゆる引きこもりになった。高校時代の友人も女子大の教授たちも「あの元気な子が!」と仰天した。

私のために一緒に大阪にいて、と言った姉は自分の進学した大阪教育大(美術学科)の近くに家を借り寄り付かなくなった。

母親は異様に高い着物を買って私の入学式に出席(私は大学生なのに制服!があった)、ドヤ顔で写真の真ん中に映っていた。直後に自分名義のマンションも一つ買い、それは姉のアトリエ代わりになった。車も買い与えて、今思うと進学阻止実行犯への分配である。

二人とも話をすれば自分の責任になるからいっさいしない。あなたのことを思って、と東京への進学を阻止した割には無関心であり、それまで元気いっぱいだった妹が、突然引きこもっていても言及しなければなかったことにできる、と思っている(このあたりがとても日本人、と思うのだがどうだろう)。

ここから3年、死ぬ気で立ち直って、前出の短大を受験しなおし卒業。本来は四大の中国語学科卒しか受け付けてなかったダイエーと中国の合弁商社に入社した。母親は突然、あなたは仕事なんかしなくてもいい、家で遊んでれば? と言い出したが、とにかくどこでもいいから入社して自分で稼がないと、思った。


入社試験の折は、学生時代に作った全作品を持参した。面接はとにかく迫力と殺気にあふれていたらしく、おまえ、あの勢いがあったら、どんな良い会社も受かったぞ、と後々まで言われたが、そんな言葉を間に受けるほどアホでもない。

高校の友人たちは同窓会名簿を見ると、就職者は見事にほぼ全員!、一部上場企業に行っていた(当時の日本はわかりやすかったのである)。が、私は日経新聞の上場企業の新卒募集人数を電卓で足してみて、自分は受けるだけエネルギーの無駄と判断した。当時の大企業はイレギュラーは、特に女子はとらない。

5年勤めて退社。その後、会社時代の話を書いて文藝春秋の受付に持ち込みデビュー、映画化もされ中国に渡って本を書きながら20年近くたつ、というのが私の人生なのだが、ひとつ不思議なことがあった。

進学の件について、姉と母に全く罪悪感がないのである。

学歴というのは一生つきまとう。
短大時代は年下の学生と勉強だったし、私はみんな同じ、が大好きな日本社会で、新社会人の一年目からイレギュラーだった。会社をやめるときは自分の経歴を考えて、次就職先はあるのだろうかとすごく悩んだ(やる気アピールで通用するのは20代前半までである)。

その後渡った中国も日本以上に学歴主義である。能力そのものにコンプレックスはないが、有形無形で影響はあり、何よりあの時代の東京は本当に独特に輝いていた。今でも行きたかったなと思うし、何よりのちの結果を見たら、母と姉は間違えていたことになる。

特に姉は芸術系の教育者を目指していた。
それが早くから才能を認めた妹の、最適な進学を阻止したわけだが(だからこそともいえるが)、しかし一度たりとも謝ったことはない。
それどころか、

「いいじゃん、私が行かせなかったからあんたは中国の本とか書けて。キャハハ」

お前が言うなー。

姉は外面のいいタイプなのだが、仕事の長く同僚だった人の意見は「自分の描くカエルのキャラと一緒で冷血なんだよね」。クリエイターの才能は基本ない。代表作もないし、経営者でもなくて、ようは多少アートのわかるマネージャーなのである。

その後を見ていると、前の旦那と経営していたCGゲーム制作会社で、入社してきた才能ある子をノイローゼに追い込んで親に怒鳴り込まれたりしていた。私が知っているだけでも2度ある(女子美の学生さん、季里に注意やで)。ゲーム業界にあこがれてきた美人の若い子に「あんたは仕事ができひんから時給500円や」と言い渡しているのを目の前で見たこともある。で、一日18時間勤務と徹夜徹夜で、次会った時、その子は別人のようにボロボロになっていて、退社した。

私は口は悪いがそういうことは絶対できない(陰で人を陥れたこともないし、原稿でウソを書いて人を騙したこともないので、自分は天国へいくだろうとマジで思っている)。

会社は、元旦那が開発したパラッパラッパーというゲームが当たっており、空前絶後に儲かっていたのにである。

母親の方は、「私は悪うない」の一点張りで、会話が成り立たない。
おかんは東京の、いつもお手伝いさんがいるような家で育ったお嬢さんだったのだが、戦後の苦労と夫(私の父)の金はよく稼ぐがよく遊ぶ状態の中で、かなり怖い人になっており、私にはずっと人のいないところで、「あなたはいらなかったのよ」と言い続けていた。「大竹しのぶに似ていて田舎臭いから大嫌い」なのだそうである。全然似てねーよ。田舎って、私、日本は大阪の環状線内と東京の山手線の中にしか住んだこと、ないでしょーが。本当の街の子って皆どこかダサいのよ。

母は下の姉には「あなたはブスだから結婚せずに働いて、お母さんの面倒を見て。男は買ったらいいから」と、今考えても想像を絶するようなことをいい聞かせていた。

それでも親であり姉であり、まあ何十年かが過ぎた。関係は悪くなかったと思う。

 

父のお葬式

さて2012年に父が亡くなった。

私は北京にいて夜中に姉からメールで連絡を受けた。その年は危篤状態が続き、毎月のように日本に帰っていたのだが、結局死に目には会えなかった。

夜中の12時過ぎに連絡を受け、翌日朝9時の飛行機に乗り、昼には大阪についた。遺体は菩提寺のある京都に安置されている。到着したと電話をかけたら、どうも母の様子がおかしい。

「そんなに早く来なくても」
(超がんばって帰ってるのになんで?)

関空から京都に直行し、午後一番には安置所についた。
えっ? 遺体がない。
母に聞くと、すごい死に顔だっただめ、下の姉が死体修復に出したという。姉は最初の旦那と離婚したあと、12歳年下の大学の助手だった人と再婚したのだが、彼の家族がお通夜やお葬式に来るため、その死に顔を見せるのが嫌だったそうである。

でもなぜ午後イチまで待てない? 父に一番かわいがられた私は、どんな死に顔でもそれが父なら自然でいいと思ったし、最後に化粧されていない父に会いたかった。夕方”加工”されて戻ってきた父はペンキを顔に塗りたくられ、樹脂で固定されて顔はまったくの別人だった。知らない人である。

姉は旦那の家族が「いい死に顔で」というと満足そうだった。

そして突然お坊さんに意味なく土下座したりする。その様子が異様に慣れていて、どうしたの?と聞いたら「日本人にはこれが効果あるの。自分や旦那の職探しとかいろんなところで役に立った」。

姉は年下の、(当初)稼ぎのない旦那と再婚して理解不能な人になっていた。旦那は教養のある幼稚園児といった感じの人で、ある意味、母の予言が的中したともいえる。

母と姉、両者の特徴はとにかく人からよく見られたい、という点で一致している。

あと異様なまでに他人を詮索するところ(つまりそれだけ意識が他人に向いているのである)。
姉を北京の家に泊めると、私がお風呂に入っているすきにパソコンや日記を全部勝手に開いてみる。怒っても止めないので泊めなくなった。
今の旦那に対しても同じで「確定申告隠すからこっそり見てやったら、年収100万円なかったわ」と言って、「前の旦那にもそれで離婚されてるやん。やめとき」と言ってもやめない。

私と父は、二人のように外面も良くなく、自分のやりたいことだけやっているが、人のものを勝手に見たりは一切しない。

お葬式が終わって翌日、私は今までで初めて真剣に、進学のときのことを抗議してみた。全然伝わらない。しかし私の苦労や残念だった気持ちにはまったく思い至らないようである。

ふたりとも世間ではけっこう普通の、思いやりのある日本人(のふり)しているのに。

それから数年後、ある日、私はもう一度だけ真剣に姉に言ってみた。すると驚くべきことが起こったのである。

 

突然私に〇〇しだした姉

多少は通じたようなのだが、それ以後、なんと姉は私に敬語を使いだしたのである。会話だけでなくメールも敬語。

わけわからん。

私は別に崇め奉ってほしいのではなく、「ごめんね」の一言があればよかったのである。しかしそれはなくて、とにかく敬語。今までと違って、多少は悪いことをしたのかな、意識が出たのが見えたが、まずは言い訳の嵐。

そしてハタと思い当たった。

姉は今まで私のことを「下」と思っていた。
姉みたいなタイプの「上に土下座」して世を渡っていく日本人にとって、「下」は何をしてもいい人なのである。良心の呵責もない。

しかし私の訴えでさすがに多少は悪いことをしたと認識したのだろう。その瞬間に私は姉の中で「上」になった。つまり「下」は何をしてもいい人だから、自分が悪いことをしたと認識できる相手は「上」しかおらず、だから敬語なのである。

しかし出てくる言葉は言い訳ばかりである。
”覚醒”した妹に仕返しに来られたらどうしよう、とそればっかり考えているようである。自分がエグいことをした、ではなく自分へのマイナスが怖いのである。

私はずっと姉と母がわからなかった。

なぜあそこまで、人からどう見えるか気にするのか。
いい人に見せるように気を使うのか(実態はほど遠いのに)。
人の秘密を異様に知りたがるのか。ほっておけばいいのに。
割とどうでもいいような細かいことで、人を見下したり負けたと思って引いたりする。
大儲けはしなくていいが、ソンするのは絶対いや。
そしてとにかく気が小さい。
何より人は「上」と「下」しかない。

そして思った。もしかして、母と姉は普通の、ある種の”日本人”だったのかもしれないと。

母と台湾に行ったことがあるが、あのアジアの雑踏がダメなようで、喜んでいたのは関空でのブランド品買いと高級ホテルでの食事だけだった。
姉は北京に来たけれど、ずっと持病の喘息がぶりかえして咳き込んでおり、適応はできなかった。

つまり血中中国濃度は低い。

一方父は、友達を頼ってモンゴルまでバイクを運ばせそれで草原を疾走したりしていた。私も20年ほど北京で暮らしている。

私はずっと謎だった。

心優しい日本人がどうして中国人にあんなひどいことができたのかと。もちろん戦争だと誰でもやるのだが、住んでいるとそれだけでは説明のつかないことがある気がした。
今はわかる。当時、中国人は日本人より「下」だから、何をしても良かったのである。

戦後、突然、反省を始めた日本人の一群もあるが、彼らは中国の悪事は見ず、とにかく中国様、中国様になった。彼らの中では中国は「上」に変化したからである。いいところばかりの国など存在しない。

さて昨今の日本の中国ITイノベーションすげーやLOVE報道。

これ、私は今まで「下」に見ていた中国を、日本人はもう勝てない、と認識したとたんに「上」にして、無批判にほめている状態、と見ているのだがどうだろうか。